2025年6月3日午前6時39分、「ミスタージャイアンツ」こと長嶋茂雄氏が、肺炎のため亡くなりました。享年89。
日本野球界に多大な影響を与え続けた存在の訃報に、球界内外からは深い悲しみの声が寄せられています。
■ 表舞台から遠ざかっていた晩年
長嶋氏は2004年3月に「心原性脳塞栓症」を発症し、以後は療養に専念。右半身の麻痺と言語障害を抱えながらも、リハビリに励み、式典など節目には姿を見せていました。
しかし、監督復帰が期待されながらも叶うことはありませんでした。
晩年も体調不良が続き、2018年には胆石で入院、2022年には軽度の脳出血で救急搬送されるなど、静かに闘病を続けていました。
■ 「ありがとう」と「さよなら」に包まれて
ニュースサイトには多くの追悼コメントが寄せられ、その影響力の大きさがあらためて浮き彫りになっています。
- 「長い闘病生活、本当にお疲れ様でした。心よりご冥福をお祈りします。」
- 「私の神様でした」
- 「敵チームからも愛された、数少ないスーパースターでした。」
- 「日本のプロ野球界を背負った偉大なプレーヤーであり監督だった」
- 「選手として、監督として、人間として大好きな大スターでした。」
■ 長嶋茂雄氏の功績を辿る
【高校期:佐倉第一高等学校(現・佐倉高校)】
- 千葉県立佐倉第一高等学校に在学。
- 千葉県内では有名選手だったが、甲子園出場経験はなし。
- 「ミスター・フルスイング」と呼ばれる打撃センスを見せた。
- 学業を重視し、プロではなく大学進学を選択。
【大学期:立教大学】
- 東京六大学野球で活躍。通算打率.343(311打数107安打)、本塁打8本、打点60。
- 1956年春季リーグ:打率.413(首位打者)。
- リーグ優勝2回(春秋連覇)に貢献。
- 長谷川一夫との三遊間コンビは鉄壁と称された。
- プロ8球団が競合し、特に巨人と毎日オリオンズが激しく争奪。
【プロ期:読売ジャイアンツ(1958〜1974年)】
- 1958年にプロ入り。初打席は金田正一に4打席連続三振も、後に快進撃。
- 主な通算成績:打率.305、安打2471本、本塁打444本、打点1522。
- タイトル獲得:首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、ベストナイン17回。
- ON砲(王貞治とのコンビ)で黄金時代を築く。
- 「記録より記憶に残る男」として、圧倒的な人気を誇る。
【監督期:読売ジャイアンツ】
第一次政権(1975〜1980年)
- リーグ優勝2回(1976・1977年)。
- 王貞治の引退期、苦しい再建期に奮闘。
第二次政権(1993〜2001年)
- リーグ優勝2回(1996・2000年)、日本一(2000年)。
- 松井秀喜を主軸に据え、若手を積極起用。
- 2000年の「ON対決」(巨人×ダイエー)で王監督と激突、日本一を達成。
【その他の栄誉】
- 国民栄誉賞(2013年):王貞治氏とともに受賞。
- 文化勲章(2013年)。
- 東京五輪2020の聖火ランナー:車椅子で王氏と共に聖火をつなぐ。
- “ミスター・ジャイアンツ”として、球界の象徴的存在。
■ 個人的な追悼と記憶
私自身、野球をかじったことがあり、長嶋氏の全盛期をリアルタイムで見た世代ではありませんが、「野球=長嶋茂雄」というイメージは常に頭に刻まれていました。
父は阪神ファンで、巨人には厳しい言葉を投げていたものの、長嶋さんのことだけは決して悪く言わなかった。それが何より、彼の人柄と存在感の大きさを物語っていたように思います。
「3」という数字を見ると、今でも自然と長嶋茂雄の姿が浮かびます。
偉大な球人を、私たちは忘れません。
長嶋茂雄は、永久に不滅です。
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